夢魔
髪、頬、胸、腿――。
全身にこびりつくスペルマの残滓が、昨夜の情事を生々しく脳裏に甦らせる。
シャワーはそれらを拭ってくれるが、内面の澱みまでは決して洗い流してくれなかった。
所詮は夢。
現実とは一線を画した、別世界での出来事のはずだった。
だからこそ、耐えることができた。
例えそれが自分の裡に秘められた倒錯的な願望だったとしても、決して他人に知られることはないのだから。
だが昨夜、ついに夢魔はその境界線を踏み越えてきたのだ。
あまりに非現実的な体験だが、清彦にはどうしても昨夜の出来事が幻だとは思えなかった。
(僕は狂ってしまったのだろうか……)
自分が狂気への第一歩を踏み出してしまったのではないか。
そう思うと恐怖心がこみ上げてくる。
だけど。
ないはずの膣が、波を打つようにキュッと収縮する。
(もしまた夢魔がやってきたら……)
すぐに快楽に屈してしまう自分が、たやすく想像できた。
(ダメだ……逃げないと……)
その時、外から双葉の声が聞こえてきた。
「おはよー清彦」
「あ……おはよう」
「昨日お隣さんうるさかったね……深夜にずっと騒いでなかった?」
思わず、硬直してしまう。
「いや……何も音はしなかったけど」
「そう? じゃあ勘違いかも。あたしも寝ぼけてたからよく憶えてないんだけどね。あ、後であたしにもシャワー貸して」
「うん、わかった……」
――やっぱり、何とかしなければ。
シャワーの水圧を上げながら、清彦はそう思った。
「もう泊まりにこないでほしいんだ」
浴室から出てきた双葉に、清彦はそう伝えた。
彼女の長い黒髪からわずかに漂うリンスの芳香。
だが、むせ返るような精臭がそれをたやすく打ち消してしまう。
残り香とは思えないほど濃厚だ。
しかし、双葉はまるで気づいていないようだった。
「えーっ、なんで!? 清彦のケチ!」
拒まれる筋合いはないと口をとがらせる彼女だったが、構っていられる場合ではなかった。
何しろ、双葉が泊まった日に限って夢魔が現れるのだ。
「この部屋、寝心地いいのに。あたしの安眠地帯なのに」
「自分の家で寝ればいいだろ」
双葉の家庭環境に何か安眠を脅かすような問題があるわけではない。
かといって、二人は恋仲というわけでもない。
清彦は、一人暮らしの気心が知れた幼なじみ。
双葉が泊まりに来る理由は、ただそれだけだった。
(まあ、いつかは終わりがくることだったんだし)
いずれ双葉のほうから来なくなるだろうと思っていたのを、こちらから切り出しただけのことだ。
「むー……仕方ないなあ」
ごねられるかと思ったが、双葉は思ったより簡単に引き下がった。
(よかった。これで夢魔から逃れられるかも……)
「あっもしかして、清彦いい人ができちゃった?」
「い……いや、そういうわけじゃないけど……」
思わず、心臓が脈を打つ。
夢魔の妖艶な容姿が脳裏をかすめた。
が、その美貌はどこかおぼろげで、曖昧なものに感じられた。
裸体の夢魔は、醜悪な巨根を惜しげもなく晒している。
存在しない清彦の膣が疼き、心臓以上に大きな音を鳴らした。